この日町山さんは、『スコット・ピルグリムVSザ・ワールド』という映画の紹介だったのですが、個人的にはこの映画の内容よりも、この映画(やその他の良質の海外映画)が日本で上映できない理由が興味深かったです。
この監督の前作も日本公開できそうになかったところを町山さんとその仲間が上映運動して何とか放映できた。負のサイクルは形として全体が見えないと、「何故関係者は努力で何とかしないのか」と思ってしまいますが、負のサイクルに巻き込まれた当事者は個々の努力でどうにかなる部分と、そうではない部分についてよくわかっています。
これは映画会社のせいではない。劇場がいっぱいになっている。
日本映画がどんどん入ってきているので先送りにして入ってこれない。
日本映画の場合、どのくらいチケットを売るから、とか、宣伝をしっかりしてくれたり、とか、ひどい場合は保証金としてお金を渡したりする。
劇場はチケット何枚とか興行保証がないと商売なので上映には踏み切りづらい。
日本のテレビ局が広告収入を失いつつあり、事業部が色々なイベントをやったり関連映画をどんどんつくらざるをえない状況となってきていて、それが海外からの映画の上映を難しくしている。
それにもかかわらず個々の努力が必要だというのはいつも間違いのないことではありますが、その不毛さと戦うことが前進だとはどうしても感じられないのだと思います。
けれども、一傍観者として努力をして何かを成し遂げた人の物語に感動するとき、何かを成し遂げた人は必ず不毛の負のサイクルから這い上がってきているのではないでしょうか。今の日本は負のサイクルに満ち溢れていて、しかも先行き・未来が全く見えない状況が続いています。
私は映画は見ませんが、町山さんが努力で海外の映画を日本に紹介している話を聞くとそれだけで感動します。この時、私が感動する為に必要な情報は、「海外の映画の紹介が難しくなっているのは日本映画の飽和に原因があり、その飽和は社会情勢の変化によって生じた広告収入の減少に起因している」という簡単には解決しようのない負のサイクルに抵抗している、という映画業界の「全体の構図」です。
「全体の構図」が詳らかにされることによって理解に寛容になれる場合がある・理解が進むことがあるということは、何か問題を考えるときに分からない/納得がいかないことがあったなら、それは自分がその問題を生んでいる「全体の構図」がみえていないことを逆に意味しています。
ニュースに納得ができない場合、自分がそのニュースの関わる業界の負のサイクルをざっくりと描けるかどうかで理解度が自分でわかります。
日本国内にも不誠実な人は居ますが、そんなに大多数ではありません。
特定の不誠実な人が原因であるニュースは少数だと信じて、自分の理解度を磨くことが必要です。