神足さんが梅干を干した話。
(梅干の干し方を説明した神足さん。現在娘とケンカ中)
神足さん
「先週娘を怒鳴った私は、梅の仕込みをやっていまして、帰ってきてまず口も聞きたくないだろうなという状態の娘を捕まえて、しょうがないから、その梅酢をすくってちょっと、飲んでみって。飲ませまして。なんとまだ自分もまだ飲んだことなかったのに。」
小島さん
「いきなり」
神足さん
「実験的に飲ませたら、娘が(無音)という顔をしまして、すっぱい、みたいな。口をすぼめてなんか眼をすぼめるみたいな。」
小島さん
「ひょっとこさんみたいな。」
神足さん
「ううん、それだけでおかしいんですけど、なんでそんな顔するんだろうとおもって、自分も一口飲んでみると、おんなじ顔になりまして」
小島さん
「はっはっは、ひょっとこさんみたいな。」
神足さん
「それは、酸っぱくてしょっぱいんですね。ものすごい、原液ですから。梅酢は酸っぱくてしょっぱいっていうのを、水で薄めて佐藤入れたら、おいしくなりまして、おお、これで大丈夫だ、おいしい、っと」
「これだけでいいんですね、世の中っていうのは。」
小島さん「梅をつけた私は来年を信じている」、という言葉は、私には、平和が獲得した最良の言葉のように思えてなりませんでした。思えば私が子供の頃、私のまわりの大人達は面倒な時間のかかることばかりをしていたような記憶がありましたが、それはその時間を生きること、未来を信じることに他ならなかったんだなぁ、と今になって初めてわかりました。
「あらー、よかったじゃないですか、神足さん」
神足さん
「ほんと梅つけててよかったなあとおもったんですけどね」
小島さん
「そうねえ」
神足さん
「この梅干なんですけど、土用の頃に天日干しをするんですけど、殺菌のためっていいますが、三日三晩干すんですけど、夜は干さないか、太陽殺菌かな。食べられるのは2.3ヶ月後から半年後から半年後ですから」
小島さん
「ああ、秋か」
神足さん
「ほぼ、秋とか正月とかそのあたり、なんですよ」
小島さん
「そうですね」
神足さん
「なんですよ。そーんな大変だからみんなやんないんです、梅干つけんの」
小島さん
「そーね、どこでも買えるしっておもっちゃうんだろうね。」
神足さん
「でもそん時私は娘に飲ませてわかったんですがね、この、まず食べられない最中にも楽しみがあって、この梅をつけたってことは来年生きてないと食べられないわけじゃあいですか」
小島さん
「そうですね。」
神足さん
「ということは梅をつけた私は来年を信じている、と。ということはですね、梅干一年かかるのは大変だとかおもわないでね、四年くらいかかってもいいんじゃないかと思ってね」
小島さん
「四年後を信じるわけだ。」
神足さん
「四年後にはね梅干食いながら駒野がシュート決めるの見てるとかいう気持ちになるわけです。」
小島さん
「あー、なんか神足さん、いいお父さんですね」
神足さん
「ねえ、なんかね、手仕事やって、なんかめんどくさいことやってるとね、ちょっとつらいことはね、救いになるんです。」
小島さん
「あー、なんか私これからまだ上の子七歳ですけど、」
神足さん
「梅つけたほうがいい、うめ」
小島さん「中学生になったら梅付けるわ。」
神足さん
「毎日あの、ぬか床をいじんなきゃいけないなんてことはけっこうしあわせなんですよね」
小島さん
「でもね、家族のいろんなドラマもあるけれど、あの、小説とかテレビドラマもあるけれど、そこでいろんな言葉もやりとりもあるけれど、あの、そんなことでいろんな、いろんないくつもの言葉を費やすよりも、関係が、ねえ、上手く行くことって、あるのね。」
神足さん
「そう、梅酢飲むだけでよかった」
小島さん
「とりあえずひょっとこの顔するだけでよかったんだね。あー安心した。ありがとうございました。」
神足さんが「毎日ぬか床をいじんなきゃいけないってことは結構幸せなんだ」といったとき、そこには大人としての本当の自覚があるように思います。もし私が子供のときにこの言葉を聞いたら、ステレオタイプな主婦業をするのが女の幸せだ、というふうに取り違えただろうと思います。時間をかけて手作業をするのは未来を信じることだ、という言葉、私は胸に刻んでおこうと思いました。
もうひとつ、大切なことで、父親と娘が仲違いをしたのちに、仲直りをするのには、ただ酸っぱい梅酢を飲んで、お互いひょっとこみたいな顔をするだけでいい、世の中これだけでいいというのも、とても心に響きました。立場やすれ違いや、微妙な年齢のもたらすやりづらさも、ただ一瞬の共感がいっときに距離を取り去ってしまうということが、あるんだろうな、と思いました。
夢や希望を語るとき、将来の目標とか、何になりたいかとか、そういう大きい形で未来を捉えさせて、そこから日常を変えていこうという考え方が世の中にごく普通にあるように思いますが、将来社長になりたいからいま頑張る、とか、将来サッカー選手になりたいから何かをやるとか、そういう未来の捉え方だけが未来じゃあないんだな、と感じます。大きな目標を手帳に書いて努力することは素晴らしいことだとは思いますが、そこから脱落した人が数多くいるのも私は知っています。
そういう人達は未来を諦めた人なのかというと、必ずしもそうではない。未来を思い描くのではなく、梅干を干すように未来を感じる人になっているかもしれない。地続きの時間の感じ方の延長線上に未来を描くのは、梅干を干すような、漬物をつけるような形で存在するのかもしれません。
そういう地に足をつけて生活をしている人であれば、ただ「共感」というものがコミュニケーションで一気に距離を消し去ってしまうことが確かにあるかもしれません。梅干を干すように時間を感じながら未来を感じることは、ある人にとっては「希望」のひとつの形になり得るだろうと思います。