2010年9月15日水曜日

壊れた機械の前で待つ人の話。小島慶子キラ☆キラより。

8月25日の小島慶子キラ☆キラより、宇多丸さんが買ってきたシーマンの話。
ライムスター宇多丸さん(以下宇多丸)
「昔あのシーマンっていうさあ、飼育ゲームがあったのわかります?」


小島慶子さん(以下小島)
「人面魚みたいなやつ?」

宇多丸
「僕あれをね、買って、あれですよ、前この番組でも話題になったドリームキャストですよ」

小島
「はいはい」

宇多丸
「ドリームキャストでシーマン買って来て、こうやって入れて、卵を最初に孵らせないといけないんですけど、何時までたっても孵んないんですね。やってるとおりにしても孵んないわけ。

おっかーしな、でもこれ多分なんかやり方が違うんだろうかなとおもって、ほんと延べ時間にして十何時間くらい卵を見ながらこうやって待ってたんですけど孵んないんですよ。
どうしてもわかんなくて色々やった挙句ドリームキャスト本体をセガに送ったら、

『本体壊れてますね』

あれはほんとに時間を返せ以外の何者でもない」

小島
「非常に無駄でしたね」

宇多丸
「お風呂の中からもずっとテレビをみていて、いつ孵えるかわかんないからとかいって」

小島
「単に壊れて止まっているいるゲーム機をみてただけってことなのね。卵って罪作りだね。絵的に。どんなにじっとしてても絶対孵えるって思うから」
自分のやっていることに手応えがないと、間違ったことをやっているかどうか確認のしようがないというのはよくあることかと思います。
ゲームというのは(特に最近のゲームは)「ユーザーが正しい」ことを前提として約束されていると思います。作り手はユーザーに飽きられないように、正しい手順を踏めば正しく進むように出来ています。卵の映像が出てきて、それが止まっている限り、「待つ」ことで約束は果たされて孵化をする、というのがゲームのお約束です。
ゲームのお約束は破られると結構びっくりするもので、以前、プレイステーションだったかで、「ヴァルキリープロファイル」というソフトがあったかと思うのですが、このソフト、エライ人の命令通りに行動するとまっとうなエンディングにたどり着けません。ゲームのお約束で「悪いこと」をすると良い展開になる、というのは、ゲーム上であってすら、結構勇気がいった記憶があります。
人間は、いつの間にか、「いつも繰り返していることがいつも当然繰り返される」と自分で錯覚していきます。宇多丸さんは機械はいつか壊れるという原則を疑うまでに「十何時間」かかって、ゲームのルールの上で現実を踊っていたわけですが、これ、誰でもこういう目に必ずあうだろうなと思ってしまいます。「機械はいつか壊れる」というのは絶対的な真実であり、「ゲームはいつもゲームのルールを順守してくるとは限らない」ということも真実ですが、機械が壊れる可能性と、ゲームがルールを守らない可能性はどちらが高いか、実感で考えれば誰でも宇多丸さんのようにお風呂の中からもテレビ画面を見てしまって当然だと思います。
壊れたゲーム機が卵の画面をテレビに写したまま停止しており、それに対して人間がいつ動くのか、とずっと気にしてしまうという図式は思い描いただけで笑ってしまいます。
この滑稽さは何を意味しているのか。
壊れた機械の前で待つ人の面白さは、現実に約束されているように思えてしまう図式の中に人間がはまってしまっていて、その約束は絶対に実現しないことを上から見ているところにあります。
以前飼っていた猫がテレビの中に写った猫を追いかけてテレビの裏側を探しまわって笑ってしまったことがあるのですが、これと構図はよく似ています。猫にはテレビの仕組みはわからないのですが、当然猫としてはテレビ画面の裏側にテレビの世界はつづいていると信じる他ないので、テレビの裏側をずっと探しまわってしまうのですが、この様子を笑えるのは人間だけです。
人の失敗は面白いものですが、その失敗は現場で失敗だとわかったときに、鳥瞰で構図がみえたときにはじめて笑えるものです。
どうしてこれが面白いのか。全力で無駄なことをするのは単純に面白いのだ、というだけでは足りない気がします。理屈がわからないまま全力で何かに立ち向かっているさまを、理屈がわかった上で見るのは面白い、ということは言えるように思います。
この鳥瞰で他人が全力で失敗している様子を笑うとき、他人を「ばかだなあ」と笑っているわけですが、この「ばかだなあ」に、人間としての共感を持たせるように狙うのか、あざ笑わせるように狙うのかで、その笑わせ手の芸風がわかれてくるように思います。嘲笑であり、それが自分にも向いていることを分からせるものでもある笑いが特に面白いと思っています。