2010年9月29日水曜日

1985年のこと。くにまるワイドごぜんさま~より。

9月21日のくにまるワイドごぜんさま~より、吉崎達彦さんのお話のメモです。


1985年、プラザホテルでG5があった。

その時のプラザ合意について。

為替の歴史でも政治経済の歴史でもターニングポイントだった。

そもそもG5をやっていること自体が非公開だった。

9月22日・日本時間での9月23日は当時は秋分の日、翌週からものすごい円高で凄い声明が発表されたらしいということになったが、当時は大蔵大臣は竹下氏、ゴルフの格好をして成田に向かい、日銀総裁は風邪を引いたとしてマスクをつけて成田に行った。

当時の5カ国は定期的に会合を行っていた。

当時1ドル250円のレートで動いていたが、それが動くことになる。

レーガン政権ではドルが強かったが、強いアメリカ強いドルという形で動いていたが、ベーカーさんは共同声明を発表して共同介入をして、これが効いた。

87年にはブラックマンデーというのがあるが、この当時は150円となっていた。

当時は今どころの騒ぎではない。

85年4月は中曽根首相は国民に向けてひとり100ドル以上の海外製品を買ってください。そうしないと貿易黒字が解消しませんなどということをいった。実際に三越に行ってネクタイを買ってみせたが、実は買ったのはフランス製だったという笑い話がある。

当時ジャパナズナンバーワンだったので、買うアメリカ製品がなかったので、何を言い出すのかという感じがあった。

ソニーがジャンボトロンというでっかいテレビをつくって、これをつくると蛾が集まってくるのではないかという心配があったぐらいの笑い話だった。

1985年は時代の分かれ目だった。

当時の文献を読むと中曽根さんは「国際国家日本」ということをあちこちで演説をするが全く受けない。

何のことだか全然わからないから全くうけなかった。

否応なくそっちの方に行かなくなる時代がきて、それが85年だった。

円が100円台になったときに、大変だ、といった一方で、戦前世代が凄い国家になったという感想をもったこともある。

1971年ニクソンショックがあったとき、水田大蔵大臣が昭和天皇に御進講をしたときに、天皇は「円の価値が上がるのは良いことではないのか」とお尋ねになったという本当かはわからない話があって、昭和初期に為替レートで悩んだことが記憶にあって、円高はいいことではないかと考えたという話がある。
小島慶子キラ☆キラでも、西寺郷太さんが1985年は特別な年だったという話をしていた記憶があるのですが、経済がらみの話でも色々あったのですね。G20の時代からみると、G5をやっていて、それも内密だった、ということ自体がお笑いですが、メディアのスピードがあまりにも早くなりすぎていると感じます。人の感受性と思考のスピードが時代についていけなくなりつつあるように感じます。
ラジオの時間も流れが早くなっています。これはメディアが時代についていくしかないので仕方が無いことなのですが、そろそろ報道については垂れ流しではなく、振り返りも重視しないといけないのではないのでしょうか。
この早い時代の流れに反することなく、自らを振り返られるメディアの構造の変化が必要だと思います。