2010年7月27日火曜日

塾のこと。小島慶子キラ☆キラより。

7/14小島慶子キラ☆キラより

(小学一年生からの塾の勧誘があることについて)

小島慶子さん (以下 "小島")「小一から塾って」

ライムスター宇多丸さん(以下"宇多丸")「とりあいが熾烈なんですよ。数(生徒数)少なくなってるから」

小島「生活圏なんか同心円状に広がってけばいいんじゃないの。自分がいて、自分の目の前におっぱいがあって、おっぱいのむこうにお母さんがいて、お母さんのむこうに家族がいて家族の向こうに親戚がいて、その向こうに友達がいてそんで幼稚園小学校中学校って同心円状に広がってきゃ自然なんじゃないの」

宇多丸「何の話?いや、ただ同心円の途中に塾があっても別にいいじゃないすか」

小島「地元の学校でいいんじゃないのって話」

宇多丸「ああ、でも俺結構塾すきだったんでね」

宇多丸「割とあの、あの、塾派っていうのもわからないでもない

小島「塾は確かに好きだった、、地元の小学校でものすごくういてたから、塾だけはうかなかった」

宇多丸「それ、まったくそれ 小学校でなんか居づらさを感じているときに、いいじゃん。別のチャンネルとしていい」

小島「で、その塾で苦労して勉強して入った第一志望の学校でまたういたんだけどそれはどうすればいいの?」

宇多丸「それはまた別のチャンネルをみつけるの。」

小島(笑い)

宇多丸「俺ちなみに小学校のときに通ってた塾が 小学校は最低の扱いされてたの女の子たちから佐々木はほんとにおしゃべりだとか、女の腐ったようなやつだとか、塾、めちゃモテだったの、面白いって」

小島「ああ、そうなの。でも入ったの巣鴨(巣鴨中学)で全然おんなっけなしでしょ」

宇多丸「モテるもクソもおとこだからね。でか、ムショだからあれは。ムショ入ったからそれから」

小島「でもそのあとライムスターが花開いたからいいけどさ、わたしその、あの学習院でういてて、

その後入ったTBSでまたういたんだけどそれはどうすればいいの?」

宇多丸「だからやめたんじゃん」

小島「ああ、そうか、それでやめたんだー!」

宇多丸「だーいせいかい!」

小島「やったー、ヨッシャァァァァァー!!」


メールでキラキラのコーナーは配信されていないので聞き逃した方はそれまでなのが残念なのですが、この回、相当面白かったです。
それはさておき、「生活圏なんか同心円状に広がっていけば自然」という考え方と「浮いた子供にとっての塾」についてこのおふたかた、ふざけて喋っているようですが、割と大切なことを示唆なさっていると思います。
子供は自分の生活圏を選べません。というか、子供は原則、なんにも選べない事が多いように思います。
子供は親を選べないし、小学校を選べないし、そもそも「選ぶ」というより「やる」「やめる」を十分な経験・判断力無しに日々選ばざるをえない場面に直面し続けます。
これは程度の差こそあれ、どんな子供にもある程度共通することです。
自分の認識の範疇の成長と、生活圏の拡張が段階的に進んでいくことは一見幸せに思えますし、幸せか否かではなく、健全に思えます。
「塾」にあまりに早い時期に入ることに批判的に思うのは私も(特に根拠もなく)そう思うのですが、
別のチャンネルがある事自体は良い事だと思います。
というより、私は塾の先生に、「家族と先生以外の大人」の役割を、どうしても期待してしまいます。

塾や予備校の先生にはへんな人がわりと多くて、授業内容は全然聞いてなくても授業開始前の雑談は必ず効いていた人、結構いるのではないでしょうか。

学校は「建前」の世界です。建前を守り続けることが世間にとっての本当のホンネになったりする
場合も多々あるのですが、それにしても、その「建前」と、閉じた人間関係にウンザリするひとが
多くいるのではないでしょうか。
気に入ろうが気に入らなかろうが、入った学校は何とか問題なく抜けていかないとその後の人生に
苦労が待っているのは子供も薄々気付いているかと思います。
「塾」は学校の「建前」の中で最も大きなウェイトを占める「学歴」を獲得する技術を教える場所です。「塾」は単に学校の勉強を繰り返して教えたりはしません。結果が分かっている実験の結果を
知らない振りをする必要もありませんし、全部覚えろというところは全部覚えろと指導しますし、
「テストでよく出る」場所を教えてくれたり、「建前」全開の授業から退屈を取り除くことによって、
塾の先生たちは出来のいい子供たちに「剥き出しの反抗」の手応えを教えていたりします。
塾が面白かった人は、単に勉強を教わったからではなく、建前だらけの学校というものをホンネだらけの論理で塾が突破しようとしている剥き出しの感触を味わったからではないでしょうか。
最も、塾の「ホンネ」は学校の建前の世界が大きく立ちはだかっているから初めて有効になる概念で、学校がなくなってしまったら、それこそ本当にくだらない概念だとは思います。

人は成長するに従って生活圏を移動させていき、生活圏は大きくなっていきます。
しかし接触する世界の広さは必ずしも広くなるとは限りません。
小学校から中学校に移動しても、移動距離が伸びただけ、高校に入っても、大学に入っても、アルバイトや就職で「社会」と接触しない限りは「学校」の場所が変わっていくだけで、同じ文化圏内で場所を移動するだけの人も多くいるかと思います。
試験制度とその弊害の狭間で揺れている学校社会で悩む学生に対して、塾は「学力」を与えますが、本当は、塾が教えているのは、学校が教えてようとしている「学力」というものが学校制度で身につけるのがいかに難しいか、ということなのかもしれません。それは社会の中の建前とホンネの構造そのものとそっくりです。

私は中学生の頃は割と勉強ができて、東大に30人とか合格するいわゆる名門高校に通っておりましたが(入ったらあっという間に落ちこぼれました)、クラスの人数45人のうち、塾に全く行かないで合格したのは二人か三人かだったかと思います。中等教育課程の五科目をほぼ完璧に理解していないと受からない学校なのですが、中等教育課程の完全な理解を成し遂げた人材は、9割以上塾によって鍛えられていたというのは、現在では「常識」なのですが、素に戻って考えれば、おかしなことだと言わざるを得ません。

「塾」の講師は、割と面白い人が多いのではないかと思います。彼らが教えてくれるのは受験テクニックだけではないと信じたいです。学校を軽視するつもりはないですが、「学校」に対しての社会からのメッセージのひとつとして、剥き出しのホンネを「塾」が子供たちに教えてくれることを私は望みます。

本当は尊敬できる労働者としての大人が「社会」の手触りを教えるのが最も良いことだとは思うのですが、塾に通いながらも、「建前」だらけの学校でうまく自分の立ち位置をコントロールできるバランス感覚がある子供は、きっと社会で求められる人材になれるかと思います。