2010年7月19日月曜日

プロレスに思うこと。

7月14日の小島慶子キラ☆キラより
オープニングトークで紹介されたメールが面白かったです。
江東区36歳男性無党派2号さんのメールだそうです。


テンションの高さと聞いて、去年なくなった父のプロレスを見ている時の異常なまでのテンションの高さを思い出したのでメールします。
悪役嫌いの父は正統派レスラーが凶器などでやられ始めると、目を血走らせ、体を震わせながら
「タマ蹴れ!金玉握りつぶせ!」

と正統派レスラーに反則のススメ。
そんな父は女子プロレスが大好き。その当時は極悪同盟のダンプ松本、ブル中野がやり放題。
それに対して我が父は

「タマ蹴れ!金玉だよ」

興奮しすぎにも程があるくらい壊れ始め

「オヤジ、女だよ、おんな」

となだめると

「オンナァ?なら、眼だ、眼ェつぶせ!」

「竹刀奪って頭割れ、首しめろお!」

もはや法律が絡むであろう反則の数々。
今思うとプロレスは父の元気の素だったのかもしれませんが、
何かひとつでもプロレス技を知っていたのかなぁと疑問に思います。

プロレス技を知らないプロレスファンというのが昔は確かにいたかもしれません。
「プロレスはやらせであるのか」を真面目に議論していた時代がかつてあったということ自体忘れられそうな昨今ですが、このメールに出てくるお父さんみたいなファンが昔は確かにいました。
最近、テレビで小さなプロレス団体の興行を取り上げられることが多いと思うのですが、それらの取り上げられ方は割と「地元密着」「努力・手作り」「素直によろこぶ子供たち」という構図にはまりがちなのかなと思います。
それらの番組を微笑ましくみていて今まで気づかなかったのですが、地方にあるプロレス団体を取り上げる時に持ち出される「地元密着」「努力・手作り」「素直によろこぶ子供たち」「夢を届けるプロレスラー」みたいなメッセージって何かに共通するところがあるな、と。
私がみたあるテレビ番組の構図はこうです。

・1度はプロレスラーを目指した青年が中年になってもう一度プロレスをやりたいと思う。
・地方の団体で応援をしてくれる企業をなんとか探しまわりつつ、日々厳しいトレーニングをする。
・体育館や駐車場で興行。子供たちだけでなく大人もよろこぶ。

この構図、素朴に見えますが、「ねじれ」が含まれています。
その「ねじれ」は「プロレスはやらせではない」という不文律ではないのです。

地方のプロレスと対比してみるに、メジャーなプロレスのファンは現在、概ねプロレスのマニアだと言っていいんじゃないでしょうか。
技の名前、団体の歴史、抗争の由来やら何やら、プロレスファンでない人から見ると実にどうでもいいようなことを延々と語るプロレスファンは大変に多くいらっしゃいます。
傍から熱く語っているのを見るのは楽しいのですが、熱く語りかけられると迷惑なのはどのマニアにも共通です。
ただし、他の分野のマニアとひとつ違うのは、プロレスにはそれが「やらせ」であるかどうかは「触れてはならない」という「ねじれ」があるということではないでしょうか。非プロレスファンがプロレスファンをからかうときの定番のやりとりは、プロレスが「やらせ」であることを突っついたり、総合格闘技で意外と勝てないことを指摘したりする、なんていうのがありますが、それをはじめると、途端に話がつまらなくなったりします。
この「ねじれ」が裏にある上で世界がなりたっていて、みんながそれに触れずに真剣に見る、という構図は滑稽にみえますが、実は滑稽でも何でもなく自然に成り立ってしまっている世界があります。
先に紹介した地方のプロレスの構図がそれです。
「かつてプロレスラーを目指したことのある青年」が「厳しい現実との合間を縫ってプロレスの舞台を用意し」「素朴に喜んでくれる子供たちと感動をともにして」「大人も感動して」「みんながプロレスっていいものだ」と感じる。
この流れでは「かつてプロレスラーを目指したことのある青年」は多くの場合かつて目指したメジャーなプロレスラーとは違った立ち位置のプロレスラーを志向しています。彼は「何かを諦めた上で、違う立場でもう一度そこに立つ人」なのです。
その彼は「厳しい現実との合間を縫ってプロレスの舞台を用意」しますが、そこに待っている厳しい現実はかつてその彼がプロレスラーに成れなかった壁ではなく、彼が青年から中年になるときに通った「社会の壁」です。お金の都合、時間の都合、場所の都合、レスラーになるための自己研鑚の苦労ではなく、社会との折り合いをつけてスポンサーを見つけることが壁なのです。
社会の壁を乗り越えつつ自己研鑚をするというのは、ほんとうに見習いたい素晴らしい姿勢です。
苦労の果てに用意された舞台はかつて目指した大きな晴れ舞台ではなく、駐車場や体育館で、お客さんだって全員にあいさつしようと思ったら出来るくらいの数です。子供を連れてきた大人には会場にきただけでそこが「社会の事情と夢の狭間」の舞台であることはすぐにわかります。
しかしやってきた子供達にはそれは問題ではありません。真剣にプロレスをする大人たちの魅力は、それがやらせであるかどうかは関係なく、真剣さで伝わってしまいます。
子供の喜び方と大人の喜び方はこの時、すこし違っていたはずです。
子供は素直に感動したかもしれません。
しかし大人は手作り地方巡業の難しさを現場に来た瞬間に理解してしまいます。地方のプロレスの経済事情は誰かが何かを我慢しないと成り立たない「ねじれ」の関係なのです。そのねじれをどう乗り越えたのかはわかりませんが、このプロレスを見た大人は確かに夢が社会の壁を一瞬だけ乗り越えて感動を与えている姿にも感動しています。やらせかどうかなどということよりも、もっと語ってはいけない「ねじれ」がここにあります。社会と個人との関係のねじれがそれです。
この地方プロレスで「やらせ」議論をすることは、社会で尊敬すべき努力を積み重ねた人に直接泥を塗る行為です。やらせ行為云々よりももっと大きな「ねじれ」が存在しているけれど、それを語らず共感するというのが地方プロレスを感動的にしている構図なのではないでしょうか。

メジャーなプロレスだって経営は安定的とは言えないのでしょうが、その規模の大きさからプロレスと社会との立ち位置を「経済的に難しいところで夢を見せる」場所に置くわけにはいかないし、置いたら総スカンでしょう。もともと不文律を強要せざるを得ないプロレスという業態の都合、メジャーなプロレスはお客さんにどうしても「プロレスはやらせではない」という大きな前提を強要します。
そこで戦うプロレスラーの努力はすごいと誰だって思うのですが、規模の大きさ故にそれが前面に出てくるわけにはいかないのでしょう。
かくして子供の頃夢中にさせてくれたプロレスを大人になっても夢中でみるには、大きなプロレスの場合はマニアックな方向に向かわざるを得ず、小さなプロレスはその置かれた厳しい境遇ゆえの感動込みで見ることとなってしまいます。
キラ☆キラで紹介されたお父さんみたいに、誰もが素直にリングの上に興奮出来るのが本当は一番いいのかもしれませんが、なんとなく時代がそうさせてくれないように思います。